「キュレーションの時代」を読んで。

情報発信の世界では、これからキュレーターが重要な役割をになっていくといわれている。そのため、ここ最近、とくに盛んにキュレーションという言葉を見聞きするようになってきた。

しかし、僕はずっと違和感を持っていた。世の中に散らばる情報をひとつの軸でまとめて提示することを「キュレーション」と呼ぶらしいのだが、どう考えてもその作業は「編集」ではないのかと思っていた。

ただ、なぜ敢えてキュレーションと呼ぶのか、深い意味があるのかもしれないと思い、佐々木俊尚氏の「キュレーションの時代」を読んだ。彼は恐らくキュレーションを最初に唱えた人物である。

著書の中に書かれていたことは、ほぼすべて賛成に値した。これだけ情報が氾濫すると確かにまとめあげ、わかりやすく提示できる人物が必要とされる。そして上手くまとめられる人は影響力を持っていく。まったくその通りである。

しかし、それでも違和感は残った。

その理由は読了のあと、浮かんできた。

情報は新たな視点を見いだすためにまとめられるものではなく、埋もれた真実を浮き彫りにするためにまとめられるもの。だから、本来、様々な事象をまとめ、新たな発見・提案を目的としたキュレーションという行動を、情報をまとめあげるための行動に当てはめられたことに対して違和感があったのだ。

なので、僕は「編集」という言葉を使いべきだと思う。もし、やっていることはキュレーション活動も同じだというなら、新たな、混乱を招くワードは余計、必要ない。大体、まとめ上げる対象はあくまで情報であり、芸術家やその作品ではないのだから、それを同じワードで表現するのはおかしいと思う。

まぁ、昔ながらの言葉に新たな意味付けがおこなわれていくのは自然なことだけど、出来る限りストンと落ちる形であるべきではないだろうか。

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